「やってみる」の年
昨年社内(Food Hub Project)でやってみた 米山分けプロジェクト 。今年は一般の人たちも参加してもらいながら進める心算もあったけれど、社内で管理している田んぼに余裕がない状況で、断念せざるを得なかった。
友人らにも相談し、江田集落で続けている米づくりに参加させてもらうことにした。昨年、フードハブの米作りでもアドバイスをもらった植田さんらがやっている米作り「エタノホ」。
詳細は “エタノホ2019を振り返ります!” をご覧ください。
「たぶん、フードハブでやってたやつよりキツイよ。時間もお金もかかるよ」
そう言われたけれど、その「キツさ」も時間やお金との兼ね合いも、一般化はできないな、と。
自分たちのことだけではなく地域を思う気持ち。景観を維持し、先人の知恵をつないでいくこと。農を通じて持続可能な暮らしを探っていくこと。そんな思いを持っている人たちの米づくりを、見たい知りたいと思った。言葉の裏側をちゃんと感じたい、と。
「米を育てる」力は今の日本ではごく一部の人だけがもつ力になってしまった。コロナで日本への輸出をストップした国がいくつもある。米は国内自給率100%だとしても、日本食の要である大豆はどうだろう。肉の飼料はどこからきているんだろう。そのおおもとの種はどこから?そんなことを農業高校生たちとやり取りしていていろいろと考えさせられる。
「自分でまかなえる」ことがどれだけ安心感をもたらすかを想像してみる。今のわたしにその力はない。
少し前に高校の授業で80代のご夫婦に話を聞く時間に居合わせた。食糧難の時代を知っている人たちの口から出る「食べものは大事」という言葉はわたしの考える「食べものは大事」とニュアンスが異なるように感じられた。
お料理上手な70代のお母さんは、野菜は自分で育てたものと人からもらうものでまかなえる、と話していた。買うことはない、自分で育てたのが1番おいしい、と。カッコいい。
今回作業をした田んぼは昨年まで90歳をこえるお父さんが1人で管理されていた田んぼだと聞いた。農や食に定年はない。これまた超カッコいい。
5月2日、わたしは今年初の田んぼの整備に参加させてもらった。水路を開きお神酒を捧げる場所について行く。
田んぼのある江田地区は、3月になると菜の花が段畑を彩り、私たちの目を楽しませてくれる。その菜の花の季節が終われば、田んぼの整備が始まる。
菜の花はすき込むと土壌にガスが発生するらしく、焼くという方法をとっているのだそう。ぐるっと巡らせている波板を剥がし、新しいものに換えていく。そして、耕運。
田んぼの上に住むお母さんがお孫さんと一緒に下に降りてきた。よもぎを摘みに行くんだって。「田植えの時には、バラ寿司つくるけんなぁ」って言ってくれる。
今は亡き2人の祖母を思い出した。
母がまだ幼い頃は田植えや稲刈りの時期に学校を休んで子どもたちも総出で手伝わされたとか、大豆を育ててばあちゃんが味噌を作っていたけれどそれが好きじゃなかったとか、食べものと暮らしはとても近い距離にあったようだ。そしてそれは必ずしもいい記憶だけではなさそう。
昔の暮らしに戻したいという話ではなく、あまりにも食べものとの距離が遠くなってしまった今に不安を覚えている。そして、食べものをつくることができない自分自身にも不安を覚えている。買えばいい、ではすまなくなっていく未来が近くにきている気がして。
それにしても、保育園児からおばあちゃんまで、田んぼは人との接点が生まれる場所になるんだな。
太ももの裏に感じる筋肉痛が、なんだかうれしい。
un 樋口 明日香