広くて大きいおばの背中
最初に断っておきますが、今回は料理でもお菓子でもない…親戚ネタです。(このパターンは、初)
んーっと、なんで親戚ネタが突然出てくるのかっていうところから。
最近、自分のこれまでを「振り返って」みたいという思いがふつふつと湧き出ていまして…。きっかけは平野啓一郎さん著「私とは何か」を読んだこと。その中で「分人」という考え方が紹介されている。
分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。
分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。(中略)一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。
【私とは何か「個人」から「分人」へ】 平野啓一郎
その「分人」の解釈を私自身のこれまでに当てはめると、すごく納得できた。
例えば小学生時代、学校に親が見にくる授業参観とかは嫌だった。今でも、職場に親や親戚が来ることはできる限り避けたい。家族のことは好きだけど、家族といる時の私と仕事をしている私は違う。その違った姿を見られることを恥ずかしく感じてしまう。これは、私のなかの「分人」が、接する人や環境によって別のパターンとして対応しているからこそ起こっている現象なのだと理解した。
両親が共働きだった子ども時代、わたしを含めたいとこたち5人の集まる場所は、「大きいおば」の家。親戚12人で毎晩食卓を囲み、片付けを済ませたら家に帰るという生活は、いとこたちの中学卒業時まで続いた。
みんなが「大きいおば(通称:おっきおば)」と呼んでいたのは、母の姉。わたしにとって第二の母であり、母の次に(もしかしたら母以上に)一緒にいた人。子どもの頃は怖さもあったけれど(笑)、言葉でも行動でもいつも愛情いっぱい注いでくれる愛の人でもある。
このブログでこんな身の上話を書くのは初めてだけど、「分人」っていう考え方を知ってから、自分の色々を表現していくことに対して気持ちが軽くなったというか、まぁそれもありかなーというチャレンジのつもりで書いてます。
今回は、そんな「おっきおば」の話を。
ちょっとばかり「おっきおば」の紹介(自慢)
ざっくりと紹介すると、身内自慢になってしまう。
まず一つ目。「おっきおば」が身につけているものは、手作りが多い。
ボリューミーな体型で既成のものが合わなかったため、自分にちょうどいいサイズのものをサササッと作ってしまうことが習慣になっていた。セーターも編むし、ぬいぐるみだってイメージが降りてきたらスイスイと編み上げる。いただきものの包装紙の柄をうまく使ってアーティスティックな写真アルバムやカードも作るし、昔は彫塑も油絵もやっていた。
二つ目。脊髄損傷のため、わたしが子どもの頃はすでに車椅子に乗る生活をしていた。「どうせここまで来られないだろう」とか思いながらわたしが押入れの上段に登って逃げたつもりでいても、車椅子からダーン!と降りて追いかけてきて足を引っ張って引きずり下ろされ、叱られたこともある。パワフルさは母以上。
三つ目。車の免許もとって運転していたし、松葉杖ついて歩行練習をしていた時期もあった。曽野綾子さん(作家)らとイスラエルの周辺まで「聖地巡礼の旅」にも出かけていた(2回も)。そして、そこで出会った方たちとの交流も30年近く続いている。オープンでポジティブな性格は、親戚中で一番だと思う。
わたしが好きな「おっきおば」のセンス
そんなパワフルなおばも、ベッドの上でだんだん体力が落ちてきて起きていられる時間が短くなってきたのよーと話しているここ最近。
起き上がった瞬間に背中をみて「わ!」と思ったこれ。
セーターの後ろにフクロウの目!!
もちろん自分で縫いつけてる。
話を聞くと、どうやらこのセーターの色が好きじゃなかったようで。好きじゃない色をどうにか楽しめるようにしようと目をつけたんだって。
こういう発想、ほんと好きすぎる。
続いて…
これも、いただきもののレッグウォーマーが目が荒いし手に引っかかるし、今ひとつだったので刺繍してみたそう。
少しでも楽しめるように、あるもので作り変える。
何かをプラスしたり、すでにあるものをマイナスしたり。
これは甥へのプレゼントに作ってくれたもの。
そして、じゃじゃんっ!
これはわたしの誕生日に「夢を叶えてね!」と作ってくれたもの。
おばは「ドラ◯もん」をテレビでそんなに見たことがないらしく、従兄弟から借りたマンガ本を片手に作ってくれたみたい。
すずもちゃんとついてて細かい。
パッとひらめいたら、その勢いで手が動いて作り上げるという魔法の手。会うたび、何か新しいものを生みだしていて「見てこれ」と言ってくる。可愛い猫ちゃんのぬいぐるみも、小鳥も、うちには「おっきおば」の作品が溢れている。
わたしにはその芸術的なセンスは全くないけれど、会うたび、話すたび、その感性に触れて「すごいよな〜」が更新され続けている。
「おっきおば」とわたし。
「おっきおば」と母はタイプが全然違う。
でも、「おっきおば」とわたしは性格がよく似ている(気がする)。
今日話した中では
・気分屋
・怒りのパワー強め(社会に対しても)
この2つは確実に似てるよね、という点でお互い納得した。「おっきおば」は「わたしじゃなくてお父さん(わたしの父)に似てると思う」と言ってたけれど。
似てるタイプの人はなかなかいないけれど、身近なところに似ている人がいるのは心強い。「おっきおば」の背中をみて学ぶところ、まだまだありそう。
生まれた頃から一緒にいる「おっきおば」の前では、何もかも見透かされているようで、逆にほとんど喋らなくてもいい気がしてくる。一緒にその場にいるだけで、包まれているような気持ちになることもしばしば。
とはいえ、グサッと痛いところを突かれることもある。
時々「喝」を入れてもらいに会いに行かねば。
パン先生un(アン) 樋口 明日香